父の時間 母の時間

父の時間、母の時間

 いつも、あなたは急げ急げって。
 大股で歩くあなたについていけなくなると、立ち止まってはノロノロするなって怒ってましたね。

 カチッカチッカチッ。
 壁に掛かった時計が、言葉をかみ締めながら話す年老いた母を、急かすかのように時を刻む。
 幻想的なほど、白く霞が立った部屋で、母が横たわったままの父を見つめていた。

 私が出かける支度をしている時にも、もたもたするなって。
 私も女なんですから、いくつになってもお化粧だってしたいんですよ。
 あなただって、少しでも綺麗な女を横に連れていたいでしょ?
 だけど、早く早くって急かしながらも、いつも一緒に出掛けてくれましたね。

 いつも時間に追われていた仕事人間の父は、定年後もそのせっかちな習慣が抜けず、のんびりと育った母を苦しめていたようだ。高度成長期の犠牲者は父だったのか母だったのか?
 思えば『早く早く』と『ちょっと待って』が夫婦の会話として耳に残っている。
 久しぶりに集まった親戚やら父の親しい人たちに、若い頃の父にそっくりだと言われ、それを聞いた妻に『あなたもせっかちだもんね』と付け加えられて少し複雑な気分になってたぼくは、小さな声で父に語りかける母の、寂しそうな横顔を見つめていた。

 食事をする時も、せっかく彩を考えて作った料理なのに、あなたはあっという間に食べてしまって・・・、それでもいつも残さずに食べてくれましたね。
 ありがとう。
 もう、ゆっくり休んでくださいね。
 たまにはゆっくりするのも、いいものでしょ?

 絶え間なく続いた焼香で部屋いっぱいになった香りと煙は、葬儀スタッフが遠慮がちにふすまを開けると、まるで何かが抜けていくかのように一緒にスッと部屋から出て行った。
「まもなく出棺となります」
 葬儀スタッフがいつまでも棺から離れない母に声を掛けた。
 手際よくあたりの片づけが始まる。
「あ、ちょっと待って」
 そう言うと母は、もたつきながら懐から口紅を取り出し、色が失せた父の唇にあてた。
 薄く色づいた父の口元は、照れくさそうに少しゆがんだような気がした。
 前のめりに父の顔を覗き込んだままだった母に、間をもてあましていた葬儀スタッフが声を掛ける。
「色男ですね」
 満足げに何度も頷きながら体を起こす母が、答える。
「私が愛した人ですもの」
 胸を張った母の言葉に、今度は父の口元が少し照れて笑ったように見えた。
 手にしていた口紅を、ちょこんと自分の唇に当てる。お別れのキス。いや、母は化粧をする度に父のことを思い出すのかも知れない。

 やがて父が入った棺が、ゆっくりと家を出て行く。位牌を持った母は、今日もノロノロとそれに続いた。いつもと違って急かされない外出は、母にとって少し物足りないのだろうか?その横顔は少し寂しそうだったし、つまらなそうに見えた。
 
 

   おしまい

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