一人称♪三人称♪♪♪

『三人称か一人称かという視点のレベル』であるとか『他の方から指摘を受けたんですが、無為に視点を変更すると読者には伝わりにくいです、なので統一した方がいいかと』と言う事でしたが、2015年を迎え、あまり古い考えにとらわれるのはどうかと老婆心ながら思う次第であります。

この一人称だの三人称だのというククリですが、確かにむやみに変更すると『読みづらく』なります。
この『読みづらく』というのが肝なんですが、読みづらいと何がいけないのか?という『深い意味』を考えないと『ただ闇雲に三人称だの一人称だのと区別しなければならない』ことになります。

逆になぜ『一人称』だの『三人称』だのと区別するのか?誰々目線などとも言いますが、なぜ目線の違いがあるのか?

これは『主観』と『客観』に分けることが出来ます。
映像で考えてみるとわかりやすいのですが、主観の映像ばかり=主人公の見た目の映像ばかりで物語が進んだり、客観の映像ばかり=少し引き目の映像ばかりで物語が進むということになります。この『ばかり』が大事で、一方の見方だけだと何がまずいのか?というと、一方的な意見で物語が進むことになります。
こんな広い世の中に住んでいて、一つの意見で物語が進むことって、なかなか無いことです。つまり、薄っぺらな印象となります。

例えば↓
一人称で物語が進行していても、誰かが近くで言っている体の構成で、
『○組のあいつって知ってる?』『ああ、あいついい奴だったよな。意外と金を持ってて』とか『スポーツ万能だったけど、目立ち過ぎなんだよ』とか、『ちょっと気味悪かった。無口で。デもあんなことが出来るんだね!』など別方向からの意見などが入ると、作品に厚みが出て、そういう意見の中、主人公はどんな行動をしたのかを、読み手は推測できるのかな?と思います。

つまるところ何が言いたいのか?というと、一人称だの三人称だのという区別、主観だの客観だのという区別は、上手く組み合わせることによって客が物語りに入っていけるのであれば、どちらかに固執することは無いといえると思います。
当然上手く組み合わされてないと、違和感があり客は物語に入ってきません。そこをどう組み合わせるのか?主観から入って主観主観客観と進むのか?主観のすぐあとに客観で見せるのか?はたまた客観から入って主観に切り替えて見せるのか?その組み合わせを利用しないことには、物語の幅なんて狭まるばかりです。

結局は自由に既存のテクニックでも何でも使いこなして、読む側や見る側を取り込んだ者勝!ッてことになるのかもネ。^^

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください